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神戸厳島神社の針供養


29日付けの神戸新聞には使い古した針をこんにゃくに刺した後、針塚に奉納する神事「針供養」が8日厳島神社であり、地元の婦人会員や和裁士計約100人が参加したと写真付きで報道されている。道にも迷い午後2時過ぎの到着だった。針供養と書いた幟と朱塗りの鳥居が目に飛び込み、勇んで誰も居ない境内に入ると案内板が目に付き厳島神社の縁起が記載してある。当社は約八百年前の1180年に平清盛によって建立されたと書いてあるではないか。平清盛は、11806月兵庫県平野の地に福原遷都を強行した。その際に安芸の厳島神社の分霊をこの地に勧請して平家の氏神としたのが始まりらしい。


針塚の前に立派な針供養の祭壇があり、巨大なこんにゃくが据えられていた。よく見るとテレビや新聞で見たとおりまち針や縫い針が刺してある。見たことの無いほど大きな針は、皮やフェルト等の厚手用かまたは毛糸用だろうか。針塚の碑の脇には白梅がちょうど花を咲かせていた。

 

持参したまち針を3本こんにゃくに刺して、ふと見ると戸を開いた社務所に痩せて小柄な宮司がいる。籠神社の謂れと針供養について聞いた。


僅か半年程だった福原遷都の宮殿は神戸医大病院辺りに有ったらしい。この神社の往時を偲ぶような宝物は残っていない。福原遷都の1180年の8月には源頼朝が挙兵する。奇しくもNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はその場面であるが、良いタイミングで参詣したものだ。

 

針供養の28日は「御事始め」の日でもあり、8日は休養を取り、翌9日から農作業を始める習わしだったと言う宮司の説明を聞いた。


私事になるが亡くなった母は手が器用でちょっとした服も帽子も鞄も敷物も手作りした。小さい頃の息子達の服は全て母の手作りだった。粉薬の様にアルミ箔や油紙で包んだ針をよく買いに行かされた。継ぎの当てられたズボンや服を何時までも着せられ閉口した。

 

実家の整理をした時には、布の切れ端や打ち直しした綿の布団が小型トラック2台分とミシンが4台出てきた。思えば仕立て直しや使い物にならない布はおむつや雑巾にするなど、究極のエコではないか。


翌日、観梅のため明石城近辺をサイクリングした。1ヶ月前は蕾が膨らみ始めたばかりだったが、白梅も紅梅も緋梅も満開で美しかった。

 

明石城公園ではベンチで陽光を受けながら弁当を広げて居る人があちこちに居た。人丸神社下の亀の井の名水には水汲みの行列が出来ていた。

 

23日の節分が過ぎ、28日の針供養が終わり、いよいよ春到来である。早くオミクロン株が収束してほしいものだ。